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重松清の『木曜日の子ども』を読み終えました。
1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件を彷彿とさせる作品で、ひたすら不穏で言い知れぬ怖さを感じながら頁を捲っていました。例えが適当かどうか分かりませんが、ヒッチコックの映画を観ている時の背筋が寒くなるような感覚が蘇ってくる作品でした。

7年前のある日、ありふれたニュータウンにある旭ヶ丘という中学校が最初の舞台です。〈もうすぐたくさん生徒が死にます みんな木曜日の子どもです〉という一通の封書が学校へ届くところから物語が始まります。同じ頃、2年1組では生徒9人が死亡、21人が入院するという無差別毒殺事件が起きていました。給食にワルキューレという猛毒の薬物が混入されており、同組でただ一人生き残った上田祐太郎という少年によるもので、世の中を震撼させるショッキングな犯行でした。

そして7年後。この物語の主人公の清水という男は、再婚を機にこのニュータウンへ引越してくることが二幕目の始まりです。生活を共にするのは妻の香奈恵と彼女の連れ子で14歳になる晴彦という少年です。清水は三人が本当の家族になるためにと気持ちを新たにしていますし、晴彦にとっても前の学校で酷い虐めにあっていたこともあって、転校は新しい出発点になるものでした。ただ、願いは思い通りには行かないもので、清水は二人を守らなくてはいけないと思いつつも、晴彦との距離をなかなか掴めずにいるのです。

そんなおりに、晴彦が上田に面影が似ているという噂が中学校で流れていることを清水は耳にします。さらに清水が購入した家が、事件の被害者の女子中学生がかつて住んでいた家だったということをも知るのです。そして21歳になった上田が少年院を本退院して社会に復帰してきたという情報が清水の耳に届くのです。こんなところが物語前半部のさわりです。

神戸連続児童殺傷事件のときもそうでしたが、猟奇殺人事件が起きると「心の闇」などといってマスコミや専門家はこぞって事件の分析をするものの、いつも動機や背景が不可解で情報の受け手の私たちも次第に忘れていくというのが常だったように思います。ただ、一つひとつの事件が積み重なることで、確実に不安だけは蓄積されていくのは間違いありません。
後半部で、上田が述懐する部分があります。大人は子供の心の深層を探ろうと懸命になるが、それは意味がないと彼は言うのです。親子であろうが夫婦であろうが人間誰しも他者の心のあり様は分からないのが当たり前で、だから小説や映画が成り立ち、面白いのではないかとも言うのです。そして、未来の「心の闇」を抱えた中学生は、上田を「ウエダサマ」として神か聖者のように崇め、同様の行動を惹き起こすだろうことを暗示するのです。

読み終わって・・・
本当に難しい時代になったものですね。私が14歳の頃を振り返ってみますと、同級生は誰も「心の闇」なんて抱えていなかったように思います。多感な年頃ですから、些細な悩みや反抗心は抱えていたことは間違いありませんが、ゲーム感覚で猟奇事件を起こすということは感覚的にあり得なかったと思います。それよりも腹ペコの空腹感のほうが強かったですね。(^^♪
この手の不可解な事件は、家庭や学校、地域そして大人の働く環境などを含めた社会の構造の歪みが一因なのかも知れませんし、スマートフォンなどの情報機器の発達も歪みを助長しているのかも知れません。ただ、要因が分かったとしても、社会が肥大化していますし、複雑化していますので、どうすればこういう事件のない良い世の中になるのか皆目分かりませんもね。
まあ身近なところで、いま一度、他者の心なんて分かるはずがないということを前提にして、だからこそ相手を理解する努力が必要なのかなと思っています。そんなことを考えさせる一冊でした。
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