2020年5月のピアノ
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日本ピアノ調律師協会のカレンダーの5月の紹介を忘れていました。
当月は日本で最初に作られたアップライトピアノが掲載されていました。1900年(明治33年)に日本楽器製造株式会社(現 ヤマハ株式会社)の山葉寅楠が、若手の松山大三郎、山葉直吉、河合小市(後の河合楽器の創設者)らとともに製作した記念すべきピアノです。これ以前にもピアノの製造は始められていましたが、国産化したのは外部の木工部分だけで、内部の主要部品のほとんどは海外からの輸入というものでした。そんななかアクションなどを含めて国産化した輝かしい一台と言えます。ただピアノ弦の国産化は遅く、昭和20年代まで待たなくてはなりませんでした。
当月は日本で最初に作られたアップライトピアノが掲載されていました。1900年(明治33年)に日本楽器製造株式会社(現 ヤマハ株式会社)の山葉寅楠が、若手の松山大三郎、山葉直吉、河合小市(後の河合楽器の創設者)らとともに製作した記念すべきピアノです。これ以前にもピアノの製造は始められていましたが、国産化したのは外部の木工部分だけで、内部の主要部品のほとんどは海外からの輸入というものでした。そんななかアクションなどを含めて国産化した輝かしい一台と言えます。ただピアノ弦の国産化は遅く、昭和20年代まで待たなくてはなりませんでした。
そもそも山葉寅楠(やまは とらくす)という人は面白い人ですね。もとは医療器具を修理する職人だったらしいですが、たまたま浜松の病院長の紹介で浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)のオルガンの修理を依頼されたことがこの道に進むきっかけになったようです。当時、日本国内でオルガンを製造する技術はなく、すべて米国からの輸入品でとても高価なものだったようです。小学校から依頼された修理は簡単なものだったそうですが、寅楠はあえてオルガンを分解して、これをもとに詳細な構造仕様図を作成したということです。寅楠は、国産なら安く作れるだろうし、唱歌教育の広まりと共に全国の小学校の需要が高まることを先見的に読んでいたようです。これは図星でした。資金的な面でバックアップしてくれる理解者との出会いもあって「山葉風琴製造所(のちの日本楽器製造株式会社)」を設立することになります。
河合小市(かわい こいち)との出会いも運命的なものでした。小市は前述の浜松尋常小学校に通っていた少年であり、11歳にしてキラキラと輝くような天性の才能を備えていたことが知られていました。この小市少年が寅楠の目に留まったことは言うまでもなく、国産ピアノ・メーカーとして歩みを始めた日本楽器製造株式会社の両翼を担う人物として成長していきます。小市はおもに国産ピアノにとって必要不可欠な重要部品であったアクションの開発に心血を注ぐことになります。そんな2大スターの寅楠と小市の最高傑作が写真のピアノです。
昭和2年(1927年)に小市は、ヤマハから独立して「河合楽器研究所」を創立し、現在に至っています。YAMAHAとKAWAIは、世界中のピアニストから愛される一流ブランドですが、そんな感動の歴史があるんですね。
コメント
コメント一覧 (2)
コメントをいただきまして有難うございます。とても嬉しいです。
dearyumiさんは音楽の先生ですからピアノに纏わるお話は詳しいことと思いますが、ピアノの歴史にはいろいろなエピソードがあってドラマチックですよね。
山葉寅楠と河合小市、そして両者を結び付けた人たち、誰か一人が欠けてもヤマハとカワイのピアノが誕生しなかったのでしょうね。
そうそう、ブログサークルのコメント欄は一時的に閉じていました。お許しくださいね。
macoto
がしました
ヤマハとカワイのお話、とても興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。
ブログサークルのコメント欄は開けられないのですか。
macoto
がしました