「やってみなはれ みとくんなはれ」 山口瞳/開高健
- カテゴリ:
- ちょっと面白かった本
本によりますと、信治郎は明治12年に大阪市東区で両替商を営む家に生まれています。小さい頃から才気煥発な腕白小僧だったらしく、13歳で道修町の薬種問屋に丁稚奉公をします。父親の営む両替屋が米屋に転業し、副業としてラムネやサイダー、ときにはイミテーションのウィスキーなども売ることがあったそうで、このウイスキーが薬種問屋で調合されていたこともあって、調合技術の習得などを目的に父親が奉公に出したようです。これが「鳥井信治郎の鼻」といわれる天与の資質に磨きをかけたと云われています。
そして22歳で南区安堂寺橋通に「寿屋洋酒店」を開業し、あの懐かしい「赤玉ポートワイン」を自ら調合し製品化して発売します。葡萄酒が「人参規那鉄」などと呼ばれていた時代ですから、このネーミングは画期的でしたし、あの半身ヌードの斬新なポスターも広告に一役かったのでしょう。ドラマの通り、これが売れまくって会社の土台を築く基になったそうです。このあとも歯磨き粉(これも懐かしいスモカ)、ビール、ソース、醤油、紅茶、合成清酒、ジュースなどなど種々のものに参入し、そして失敗し、その繰り返しを続けたようです。
開高健の筆によると、『スイスの時計をし、ドイツの万年筆を持ち、"国産愛用、舶来不要"を叫んでウィスキー製造に邁進する紳士大将が南無妙法蓮華経をとなえ、八卦に凝り、"体を洗うのや"と言って朝は必ずソーダ水を1本飲むのである。およそ矛盾を恐れない。矛盾を矛盾として呑みこんでケロリとしている。』・・・云々。 朝ドラの鴨居の大将も凄いと思いますが、当の信治郎はこんなもんではなかったことが想像されます。
そうそう、昭和4年にマッサン(竹鶴政孝)のブレンドした山崎工場初のウィスキー(サントリー白札)が発売になりますが、朝ドラでもやっていたように、これが不評でまったく売れませんでした。高級ウィスキーにしか使わないシェリー酒を染み込ませた樽を使っていたにもかかわらず・・・。ウィスキーはまだ一般のものではなかったのでしょう。
ただ、サントリーでは「あの時に売れなくて良かった」というのが伝説になっているそうです。その売れない原酒が貯蔵庫で寝ることになり、熟成した「12年もの」角瓶の発売に繋がっていくのです。これが売れて売れて、売れまくったそうです。ちなみにマッサン(竹鶴政孝)は、昭和9年に約束の期間を終えて鳥井の大将の元を辞していますので、マッサンの最高傑作は皮肉にも心血を注いだ主が去った7年後に見事に開花することになります。
そんなことで私も「山崎ピュアモルト12年」をみびりちびりやりながら読んでいます。芥川賞・直木賞作家コンビが綴った軽妙、洒脱なとても面白い本でした。ぜひ読んでみてください。
・・・それと、今日(1/17)の朝ドラの鴨居の大将の小切手を切るシーン、格好良くて泣けてしまいました。ドラマは来週からいよいよ余市に舞台が移りますね。(^^♪
コメント
コメント一覧 (2)
えぇ~っ。函館の図書館から伊達の図書館への配送ですか。
函館も伊達も粋なことをするもんですね。地方の自治体も捨てたものではありませんね。素晴らしいです。
そうそう。マッサンがありましたし、この本はその意味でも面白かったです。私も開高健に一票です。それにしましても鳥井信治郎の度量の大きさには驚嘆しますね。その流れが今のサントリーにも通じているような気がします。
うふふ。牛河原さんから電話が来たらどうしましょうね。(笑)
昨日、函館図書館から伊達図書館に「やってみなはれ
みとくんなはれ」が届きましたので、さっそく借りて読みました。おもしろかったですね〜!開高健が書いた後半が良かったです。
改めてmakotoさんのコメントを読むと、本の内容がおもしろおかしく簡潔にかかれていて、makotoさんの文章力の素晴らしさに驚かされます。
牛河原さんから電話が来ても、不思議ではないと思いますよ(笑)