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「ベリョースカ」の思い出②

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現在、世界には5ヵ国程度しか社会主義国がないそうですが、東西冷戦時代には旧ソ連を含め東欧などには多くの社会主義国が存在していました。そんな時代背景の中のソ連の旅の続きです。

モスクワでは数日滞在して、決められた観光コースを国営インツーリストのガイドさんに案内してもらいました。今となっては赤の広場やクレムリンくらいしか覚えていないのですが、その中でも鮮明に印象に残っているのが、到着したシェレメチェボ空港からモスクワ市内まで行く車中からの眺めでした。街中がほのかなオレンジ色に輝いて本当にきれいだったことを憶えています。夜更けに到着したことと、初めての外国。しかも共産圏という心細い気持ちが相俟って、何となく郷愁を感じたのかも知れません。蛍光灯はまだ浸透しておらず、白熱球が主だったからなのでしょう。

それと宿泊先に指定されたウクライナ・ホテルの壮大な建物に圧倒されたことです。高さ206メートルの「スターリン・ゴシック様式による摩天楼」と称されるほどの建物ですから宮殿のようで凄かったことを憶えています。ただ、このホテル。数基あるエレベータは待てど暮らせど到着せず、さすが共産圏と呆れるほどでした。

そうそう肝心の「ベリョースカ」。ロシア語で白樺でしたね。ロシア人は白樺の樹に特別な思い入れがあるようで、「ベリョースカ」という有名な国立の民族舞踊団があります。私の思い出にある「ベリョースカ」は、樹木の白樺の他にソ連国内の大きな都市には必ずあった外国人向けの外貨ショップです。東京・新橋駅前にもサテライトショップ「ベリョースカ白樺」というのがあったようです。おもに食料品やマトリョーシカなどの観光土産を売っており、ソ連国内での観光客は必ず「ベリョースカ」へ連れて行かれました。ドルを不正に保有していた一部のエリート・ロシア人も利用していたこともあって、1980年代にゴルバチョフによって全店廃止となったようです。

私は息苦しいソ連を早く脱してヨーロッパへ行きたいと思っていましたが、日本を出発して1週間ほどして、やっとモスクワからオーストリアのウィーンへ逃れることができました。色彩に乏しいモスクワから、色とりどりのショップが並ぶ街に一歩足を踏み入れた時は、息を吹き返した思いがしたものです。ウィーンでも数日過ごし、最終目的地のスイスのジュネーブ・コアントラン国際空港に着いたのは、すでに秋深い10月のことでした。

黄色く色づいた白樺を見るたびに、上空から眺めた果てしないシベリアの大地。ほのかなオレンジ色に美しく輝いていたモスクワの街並みのことを思い出しています。あれからかれこれ半世紀近くになろうとしています。
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「ベリョースカ」の思い出①

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裏の雑木林の中に何本かの白樺の樹があります。もう30年ほど前に小さな苗木を植えたものですが、今では見上げるほどの大木になりました。その白樺のことをロシア語で「ベリョースカ」といいます。この「ベリョースカ」に思い出があります。

遥か遥か昔になりますが、私が24歳だった秋のことです。この年の9月に私はソ連(※今のロシア)を経由してヨーロッパへ行きました。為替は1ドル=360円の固定相場の時代でした。翌年、変動相場制に変わりましたが、現在の1ドル=114円からみますと隔世の感があります。そして東西冷戦真っただ中。あとで知ったのですが、エジプトがシナイ半島に侵攻して起きた第4次中東戦争が勃発した年でもありました。陰で操るのがアメリカとソ連。地域戦争は次第にエスカレートして、核のボタンを押す一歩手前まで行った危ない状況だったそうです。

そんな緊迫感のある世界情勢とはつゆ知らず、ヨーロッパへ入る一番安いルートがソ連経由ということで、新潟から国営アエロフロートでハバロフスクへ飛んだのが最初でした。社会主義国ということで勝手なことは出来ず、国営のインツーリストというところで決められた日程で旅するというものでした。シベリア鉄道という手もあったのですが、あまりにも旅程が長く、ビザの関係もあって、航空機を使う旅にしました。飛行機はイリューシンという軍用機を転用したような無骨なもので、客室乗務員も軍人のような不愛想な人たちだった印象が残っています。機内食の酸っぱく黒ずんだパンを齧りながら、小さな窓から見えるシベリアの大地を期待と不安が入り混じった複雑な気持ちで眺めつつの最初の外国旅になりました。
(※当時のソ連では、航空機からと空港での写真撮影は禁止されていました)

大蛇のように蛇行してゆったりと流れる無数の大河。針葉樹と黄色く色づいた白樺などの広葉樹が混在する大樹林帯。行けども行けども同じような景色が地平線の彼方まで続いている果てしない大地。箱庭のような日本の景色を見慣れた目には驚きの連続でした。ハバロフスクからは国内便で、比較的低いところを飛んでいたのでよく見えたのだと思います。

日本国内では日本赤軍などの極左テロ組織が活発に活動していた時代ですし、世界情勢が緊迫していましたので、ソ連入出国時の際の調べは今では想像することが出来ないくらい厳しいものでした。現在は中東を中心とした別のテロ対策が厳しくはなってきていますが・・・。そうそう、外貨(ドル)もたしか最高500ドルまでしか持ち出せなかったと記憶しています。1ドル=360円の固定相場で換算すると、180,000円ですから、いかに外貨が大切だったのかが分かります。

アムール河が街中を流れるハバロフスク、バイカル湖ちかくのイルクーツク、シベリア鉄道の要衝として知られているオムスクを経由して、やっとの思いでモスクワに到着したことを昨日のことのように思い出しています。
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コッペパンの思い出

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食パンの生地でコッペパンを作ってみました。
粉は「キタノカオリ」と「ゆめちから」をブレンドしたもので、ドライイーストは「とかち野酵母」を使いました。パンの薫りがとても良く、冷えてもモチモチ感が保たれて、とても美味しいパンになりました。

コッペパンにはいろいろと思い出があります。時代は昭和30年代前半のことです。私は田舎の小さな小学校へ入学し、その数年後に初めてコッペパンと脱脂粉乳だけの給食というものが始まりました。当時の北海道の田舎は引き揚げてきて開拓に入る人たちが多く、子供たちもそんな貧しい家庭の一員でした。弁当は良くて麦飯に梅干1個か焼き味噌というのが一般的だったと思います。
私の父はそんな田舎の小学校の教員でしたから、子供たちの栄養状態を気にかけていて、教育委員会などに窮状を訴えていたようです。父の働きかけが功を奏したとは思われませんが、やや暫くして段ボールで出来たドラム缶のようなものに入った大量のコッペパンと脱脂粉乳が学校へ届けられました。米国やユニセフの援助で、すでに都市部を中心にはじめられていた学校給食でしたが、貧弱な物流などの関係もあり、援助の手は田舎まで回らなかったのでしょう。その後、私たちは父の転勤でその地を離れましたが、継続してコッペパンと脱脂粉乳の給食は続けられていたようです。

開拓地でのパンなどは貴重品でなかなか口にできるものではありませんでしたから、子供たちは必ず半分くらいは残して持ち帰っていたようです。イマドキの子供たちのように美味しくないからと食べ残すのではなく、家にいる幼い弟や妹のために持って帰っていたと晩年の父が話していたことを憶えています。

そんな開拓地に入植した人たちの血と汗のにじむ努力によって、「キタノカオリ」や「ゆめちから」などといった良質の小麦が北海道で栽培され収穫できるようになりました。味、薫り、そしてタンパク量など欧米産に負けない素晴らしい小麦と思います。先人に感謝して美味しくいただきたいと思っています。
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